海が見たい、と言うので彼女かよとからかったらいつも薄く笑んでいる顔が少し強張ったようになったので、また失言をしたのだと気づかされた。薬指の指輪を外し忘れて来たのもそうだ。待ち合わせに来てしまった後で気がついたから、今更取り繕えなくて左手をコートのポケットに入れたままでいる。

「そのよう気が利かんとこがかわいいわ」

 沿岸が近いから風が強い。車を降りると途端に強風で前髪が荒らされるのを困ったように指先で抑えながら今吉さんは言った。俺はなんとも答え難いから風であまり聞こえていないふりをしている。
 新宿から厚木市までは高速を使って1時間半か、もう少しかかったかもしれない。ペーパードライバーだと言っていた割に特に危なげもなくここまでたどり着いてみせたあと、緊張したと言って今吉さんは笑った。なにをしても器用なのと顔色に表れないのは学生の頃から変わりない。厚木ICを降りたあと途中のコンビニで缶コーヒーを2本買った。

「こっから先は交替な。」

 海見たいし、と今吉さんが車のキーを俺の前に突き出すので受け取るために仕方なく、ポケットから手を出した。俺が気まずいと思っているのを見透かしているように今吉さんはこんな日に指輪をつけてきた俺になにも言わなかった。
 物分りがよくてむしゃくしゃする。指輪の相手と、俺が結婚すると言ったときもそうだった。俺は今吉さんと何度も寝て、今吉さんが俺を好いてるのを知っていて他の女と結婚するのに、今吉さんは俺に何も言わない。代わりに最後のわがままだと言って出てきた言葉だって「海が見たい」そんなものだった。もっとしがみ付かれれば結末は違っていたかもしれない。
 少し乱暴にドアを閉めて、俺が車に乗り込むとすぐに今吉さんも隣のシートへ乗り込んできた。

「海って、どこ。」
「どこでもええ。海は海や。」

 どこか投げやりな風に言った割りに今吉さんは、助手席に座ると地図を捲り、ここからほんの数キロで突き当たる国道がずっと海沿いを走ると調べてくれた。

 海岸通りは海に沿った立地のせいで妙なカーブが多く運転のし辛い道が続く。ペーパーというわけでもないがそれほど車に乗る機会も多くないのでどうにも口数が減った。交差点を2つ越えたあたりで車線が増えるとそこから整備の済んだ道が続いてようやく一息つけるようになる。俺の気が緩んだのを察してかそれまで窓の外をぼんやり眺めていた今吉さんもそこで声をかけてきた。

「今日はよう来たな、青峰。」

 海はもういいのか、フロントガラスに向き直る今吉さんの横顔はなにを考えているのかわからない。道幅が広がり、前後に走る車もまばらだったので俺も横目にこの人の表情を盗み見たり、言葉を交わす余裕があった。

「最後の頼みって言われて無視できねぇよ、俺だって。」
「はは、殊勝やの!青峰にもそないな気持ちがあるんか。」

 声をたてて笑う言葉に期待されていないのがありありと分かる。信頼が薄いのは半分は俺の自業自得だろうが、もう残り半分は今吉さんの達観しすぎる癖の所為だと思う。

「最後やと思ってワシがなにするか分からんとか、全然考えんかったん?」
「アンタが、なにするって言うんだよ。」
「何て、そりゃ心中とかな。」

 心中、俺が口の中で繰り返すと今吉さんはいたって軽い素振りで、それやそれと相槌を打った。それからシートに深く上体を凭れて目頭を指で抑える。疲れた時に見せる仕草だった。
 ちょうど信号に差し掛かってブレーキをかけると自動でアイドリングが停止してエンジン音が消える。

「お前を殺して、ワシも死のうかな。」

 珍しい、と思って驚いた。今吉さんが俺に対してそういうエゴめいたことを口にするのはこれが初めてだった。本心なら。俺が思わず黙ってしまうとそれきり今吉さんも口を噤んだので車内にはしばらくおかしな沈黙が生まれた。

「…死にてぇの?俺と。」
「ふ、冗談や。」

 今吉さんは力無くそう言って笑ったが、俺は黙ってアクセルを踏む足に強く力を入れた。足元のマットにペダルがぴったりと付いてしまうまで深く、エンジンが再始動して車体が十分な速度を取り戻してもそれをやめなかった。

「青峰?」

 ぐっとかかる加速の重力に驚いた今吉さんが戸惑うように俺を振返ったがそれを無視した。構わずペダルを踏み続けるとやがて振り切れる速度計の針を見て、今吉さんは徐々に状況を深刻に捉え始めたようだった。もう一度鋭く名前を呼ばれる。今吉さんが体を乗り出して俺の足の腿のあたりを強く叩いた。車体が軽いからスピードを出すと道路の凹凸にあわせて大きくバウンドする。前を走っていた車が警戒するようにウィンカーを出してすぐ、道をあけた。


「青峰!なにしとん…阿呆っ、危ないわ!」

 むちゃくちゃな走行をやめさせようと俺の膝に手を置いている今吉さんの手が小刻みに震えて、呼びかける声が段々涙声になるのがわかった。怖がっている。それに気づくと少し舞い上がってしまう。思えば俺はこの人に対して昔から、泣かれることに喜ぶような、割とそういうところがあった。子供っぽい振る舞いをもっと早く顧みることが出来ればよかった。
 しばらくは追い抜いた車にやたらにクラクションを鳴らされたが、そのうち異様に思われたのかあたりの車がこぞって路肩へ避けて止まっていくのが快感だった。


「最後なんだろ。アンタがそうしたいなら何でも言うこと聞いてやるよ。」

 息を呑むような気配があった。沈黙はそれほど長くなかったようにも思えるし、殆ど永遠にも感じた。今吉さんは口を開きかけ、すぐに締め付けられたような顔をして小さく呻いた。
 言えよ、頼むから。物分りが良すぎてむしゃくしゃする。俺が祈る気持ちでハンドルを握りしめていると、やがて息を吐いた今吉さんが「ええの?」と小さく呟いて、安心した。

「死んで」

 ガードレールの先は海だ。俺は求めることをしない今吉さんの最後の頼みぐらい、いくらでもなんだって聞いてやれると思った。
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