(山小鞠)
「なんや買わされるんかと思うた。」
練習用の周回コースを大きく外れた駅前のデパートへ、連れてこられたものだからついそう思った。
「いやだな、先輩。トイレを借りたかっただけですよ。」
「道の途中にあるやろ。公園の。そういうん考えてコース決めてんのやから。」
「……ああいう公衆トイレってボクはちょっと。」
風変わりな一年生が入ってきたとは去年の御堂筋に対しても思ったが、今年の一年もやっぱりどこかおかしかった。岸神小鞠。髪をだらだら伸ばして女みたいなやつや。俺は先輩やから、入部したての新一年に練習コースを覚えさせて、それから学校まで連れて帰らないといけない。
念入りに手を洗う後ろ姿を手持無沙汰に見ていると、石鹸、と小鞠が不意に言葉を発したので、ぼーっとしていた俺は何と聞き返す声が少し裏返った。
「この建物6階にLushが入ってるじゃないですか?だからどのフロアにもあそこの石鹸が置いてあるんですよね。そういうのって得した気分。」
「ごめん、お前がなに言うてるんかようわからん。」
「手を洗うの、趣味なんですよ。」
へぇ……、そうなん。俺が気の利かない相槌を返してそれっきり会話が止まった。他に、何と言っていいのか分からんし。小鞠のぴかぴかの爪先が洗面台へ水滴を払うのを俺は黙って見届けて、この男は苦手やな、と思う。コミュニケーションは諦めて帰りはあまり関わらずに帰ろう。そういう風に決めて、俺が背を向けて歩きだそうとする瞬間だった。
「あ、やっぱり買ってください。先輩。」
ハンカチ。水を払った手を眺めて小鞠が見上げている。半分濡れている手のひらをジャージに擦ることも無く途方に暮れた顔だ。俺の背中のポケットにはタオルの端が折って突っ込まれてはいたが、公園のトイレを使えんのと同じ理由で、こいつには使われんのやろなと思った。
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享年15歳(真波とその母親と)
「あなたのせいで山岳が死んだの?」
事故が原因で命を落とした真波山岳の葬式で、参列者の顔を覗き込んで順番に訊ねて行く母親の姿は凄まじかった。中には、詰問が自分の番へまわってくるのが恐ろしくて、焼香の前に席を立ってしまう者もいたくらいだ。
「あなたのせいで山岳が死んだの?」
「いえ」
「あなたのせいで山岳が死んだの?」
「いいえ」
「あなた」
「はい」
俯きつつ、それぞれが首を振っていく中で、東堂だけが首を縦に振ったのだ。
周りが唖然としたのもつかの間、甲高い叫び声をあげて掴みかかる母親の長い爪が東堂の目を永遠に傷物にして、場は騒然となったのであった。
「馬ァ鹿、東堂。聞き流してりゃよかったのによ。」
お前までそうなることはなかったんだ。「お前まで自転車に乗れなくなることはなかった」荒北の言葉はそういう意味だ。
真波は事故が原因で死んだのだ。事故による怪我で、腰から下の神経を生涯失ったことを苦にする自殺だった。「俺って治るんですかね?」見舞客のひとりひとりに真波はすがる様に訊いていた。
「いや、アレは俺が殺したのだ。」
じゃあ、俺死んだ方がいいですね。結局、真波はそう結論付けた。真波の言葉に東堂は真摯だったのだ。
「俺は嘘がつけないからな。」
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骨と肉(真波と東堂)
「東堂さーん、見ててください」
少し離れた道路の向こうから真波が手を振ったので東堂は振り向いた。
ちょうど車が来ていて「危ないな」と東堂は思ったのだが、見晴らしも良い通りのことであったし敢えて注意もしなかった。なにをする気だろう、そんな顔でなりゆきを見ていた。
真波が、まさか死ぬとは思わなかったのだ。東堂さん、と手を掲げた笑顔のまま真波は車にはね跳ばされて、空中でくるりと半転し、それから地面で2、3度バウンドした。そうしてそれっきりだった。どこか得体が知れないような気がする真波山岳という人間も、たかだか16歳の肉と骨なのだった。
あれから東堂はよく振り返る。
不意に歩く足を止め、通りのむこうに目を眇めている。おそらく東堂には、真波の最後の姿が見えていて、忘れられない景色としてこれからも多分続くのだ。あの日「見ててください」と言った真波が見せようとしたものは案外、そんなものなのかもしれなかった。
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お星さまはとおい(真波と東堂)
真冬の明け方も近い3時5分、東堂の部屋の窓ガラスをノックする真波の鼻の頭は赤い。
「お前ここ2階だぞ。」
先程からキイキイ音をたてていたのはこれか、と真波の伝ってきたらしい雨どいを気遣わしげに東堂は見た。梯子など掛かっていない二階の窓が、それもこんな夜中に、外からのノックで揺れたときには心底肝が冷えたものだが。責める口ぶりの東堂を無視して真波は窓から半身乗り出して、部屋の空気を嗅いでいる。窓を上るために外したのか、それとも初めからそうなのか、手袋をつけていない素手だった。東堂はさりげなくエアコンの温度を少し上げた。
「東堂さん、一緒に行きませんか?」
「どこに?」
「星」
真波の応えはいつもこんな風に少しずれていて、それは彼の一風変わったような感受性のせいなのだが、真波がきちんと噛みあう形で答えを返すことは少なかった。東堂が真波の意図を正しく汲んでやれたのは、東堂が敏く察しがよかったからと、数日前から繰り返される天気予報の内容を覚えていたからだ。
明け方にかけて双子流星群が近づいているらしい。
はぁ、と深いため息が部屋の中に散らばってしんと吸い込まれていく。
「支度をする。一度中に入れ……上着と手袋を貸してやろう。まったくお前は……、」
「あ、東堂さん違う違う。」
クローゼットにあるコートに貸せるものがある筈だと背を向ける東堂の腕を、真波は掴んだ。
「こっちから。」
瞬く間もなく強くうしろに引かれた。東堂の腕を掴んだまま真波は雨どいを離したらしい。窓枠の外へ体が抜け出したのを、周りの空気の冷たさで東堂は感じだ。こんな風に肝を冷やすのは今夜は二回目だ。ふわりと胃が浮く。
落、
ち
る。
落下の瞬間のひやりとした時間は一瞬で、すぐに地面に叩きつけられる。仰向けに空を仰いだまま暫くは衝撃で言葉も出ない。傍らで同じように横たわる真波が弾かれるように先に笑った。
「死なないや。」
「ここ2階だぞ…。」
空を向いて白い息を吐く東堂の視界の端を星が流れていった。あはははは、高い声で真波が笑っている。
「さみしいよ、東堂さん」
来週、東堂はイギリスへ渡る。
「なんや買わされるんかと思うた。」
練習用の周回コースを大きく外れた駅前のデパートへ、連れてこられたものだからついそう思った。
「いやだな、先輩。トイレを借りたかっただけですよ。」
「道の途中にあるやろ。公園の。そういうん考えてコース決めてんのやから。」
「……ああいう公衆トイレってボクはちょっと。」
風変わりな一年生が入ってきたとは去年の御堂筋に対しても思ったが、今年の一年もやっぱりどこかおかしかった。岸神小鞠。髪をだらだら伸ばして女みたいなやつや。俺は先輩やから、入部したての新一年に練習コースを覚えさせて、それから学校まで連れて帰らないといけない。
念入りに手を洗う後ろ姿を手持無沙汰に見ていると、石鹸、と小鞠が不意に言葉を発したので、ぼーっとしていた俺は何と聞き返す声が少し裏返った。
「この建物6階にLushが入ってるじゃないですか?だからどのフロアにもあそこの石鹸が置いてあるんですよね。そういうのって得した気分。」
「ごめん、お前がなに言うてるんかようわからん。」
「手を洗うの、趣味なんですよ。」
へぇ……、そうなん。俺が気の利かない相槌を返してそれっきり会話が止まった。他に、何と言っていいのか分からんし。小鞠のぴかぴかの爪先が洗面台へ水滴を払うのを俺は黙って見届けて、この男は苦手やな、と思う。コミュニケーションは諦めて帰りはあまり関わらずに帰ろう。そういう風に決めて、俺が背を向けて歩きだそうとする瞬間だった。
「あ、やっぱり買ってください。先輩。」
ハンカチ。水を払った手を眺めて小鞠が見上げている。半分濡れている手のひらをジャージに擦ることも無く途方に暮れた顔だ。俺の背中のポケットにはタオルの端が折って突っ込まれてはいたが、公園のトイレを使えんのと同じ理由で、こいつには使われんのやろなと思った。
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享年15歳(真波とその母親と)
「あなたのせいで山岳が死んだの?」
事故が原因で命を落とした真波山岳の葬式で、参列者の顔を覗き込んで順番に訊ねて行く母親の姿は凄まじかった。中には、詰問が自分の番へまわってくるのが恐ろしくて、焼香の前に席を立ってしまう者もいたくらいだ。
「あなたのせいで山岳が死んだの?」
「いえ」
「あなたのせいで山岳が死んだの?」
「いいえ」
「あなた」
「はい」
俯きつつ、それぞれが首を振っていく中で、東堂だけが首を縦に振ったのだ。
周りが唖然としたのもつかの間、甲高い叫び声をあげて掴みかかる母親の長い爪が東堂の目を永遠に傷物にして、場は騒然となったのであった。
「馬ァ鹿、東堂。聞き流してりゃよかったのによ。」
お前までそうなることはなかったんだ。「お前まで自転車に乗れなくなることはなかった」荒北の言葉はそういう意味だ。
真波は事故が原因で死んだのだ。事故による怪我で、腰から下の神経を生涯失ったことを苦にする自殺だった。「俺って治るんですかね?」見舞客のひとりひとりに真波はすがる様に訊いていた。
「いや、アレは俺が殺したのだ。」
じゃあ、俺死んだ方がいいですね。結局、真波はそう結論付けた。真波の言葉に東堂は真摯だったのだ。
「俺は嘘がつけないからな。」
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骨と肉(真波と東堂)
「東堂さーん、見ててください」
少し離れた道路の向こうから真波が手を振ったので東堂は振り向いた。
ちょうど車が来ていて「危ないな」と東堂は思ったのだが、見晴らしも良い通りのことであったし敢えて注意もしなかった。なにをする気だろう、そんな顔でなりゆきを見ていた。
真波が、まさか死ぬとは思わなかったのだ。東堂さん、と手を掲げた笑顔のまま真波は車にはね跳ばされて、空中でくるりと半転し、それから地面で2、3度バウンドした。そうしてそれっきりだった。どこか得体が知れないような気がする真波山岳という人間も、たかだか16歳の肉と骨なのだった。
あれから東堂はよく振り返る。
不意に歩く足を止め、通りのむこうに目を眇めている。おそらく東堂には、真波の最後の姿が見えていて、忘れられない景色としてこれからも多分続くのだ。あの日「見ててください」と言った真波が見せようとしたものは案外、そんなものなのかもしれなかった。
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お星さまはとおい(真波と東堂)
真冬の明け方も近い3時5分、東堂の部屋の窓ガラスをノックする真波の鼻の頭は赤い。
「お前ここ2階だぞ。」
先程からキイキイ音をたてていたのはこれか、と真波の伝ってきたらしい雨どいを気遣わしげに東堂は見た。梯子など掛かっていない二階の窓が、それもこんな夜中に、外からのノックで揺れたときには心底肝が冷えたものだが。責める口ぶりの東堂を無視して真波は窓から半身乗り出して、部屋の空気を嗅いでいる。窓を上るために外したのか、それとも初めからそうなのか、手袋をつけていない素手だった。東堂はさりげなくエアコンの温度を少し上げた。
「東堂さん、一緒に行きませんか?」
「どこに?」
「星」
真波の応えはいつもこんな風に少しずれていて、それは彼の一風変わったような感受性のせいなのだが、真波がきちんと噛みあう形で答えを返すことは少なかった。東堂が真波の意図を正しく汲んでやれたのは、東堂が敏く察しがよかったからと、数日前から繰り返される天気予報の内容を覚えていたからだ。
明け方にかけて双子流星群が近づいているらしい。
はぁ、と深いため息が部屋の中に散らばってしんと吸い込まれていく。
「支度をする。一度中に入れ……上着と手袋を貸してやろう。まったくお前は……、」
「あ、東堂さん違う違う。」
クローゼットにあるコートに貸せるものがある筈だと背を向ける東堂の腕を、真波は掴んだ。
「こっちから。」
瞬く間もなく強くうしろに引かれた。東堂の腕を掴んだまま真波は雨どいを離したらしい。窓枠の外へ体が抜け出したのを、周りの空気の冷たさで東堂は感じだ。こんな風に肝を冷やすのは今夜は二回目だ。ふわりと胃が浮く。
落、
ち
る。
落下の瞬間のひやりとした時間は一瞬で、すぐに地面に叩きつけられる。仰向けに空を仰いだまま暫くは衝撃で言葉も出ない。傍らで同じように横たわる真波が弾かれるように先に笑った。
「死なないや。」
「ここ2階だぞ…。」
空を向いて白い息を吐く東堂の視界の端を星が流れていった。あはははは、高い声で真波が笑っている。
「さみしいよ、東堂さん」
来週、東堂はイギリスへ渡る。
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